まえがき
ヨガをやらない方にとってヨガは柔軟性がすべてのように見えますが、ヨガはそれ以上のものです。 (確かに、柔軟性が高すぎるということもあります)
これは、ヨガを実践していない人々の中で、最初に遭遇する言い訳の1つです。ヨガの教室に行くと、ほぼ例外なく、「私はヨガをするほど柔軟性がありません」という反応が見られます。こんな時私は、ヨガは柔軟性の問題ではないので、試してみるべきだと思っています。
多くのヨガ初心者は、そう考えながらクラスに参加します。ダンス、体操、あるいは単なる自然な性癖など、柔軟です。それは不思議ではありません。西洋ヨガがアーサナに焦点を当てていること、メディアがアーサナの実践を表現していること、そして実践者がソーシャルメディア上で驚くべきポーズを投稿していることさえ、ヨガが柔軟性を重視し、しばしば制限のない限界のない極端なヨガであるように見えます。しかし、パタンジャリはヨガが柔軟性であるとは決して言っていませんし、アーサナを無限の柔軟性と定義したわけでもありません。
安定なくして柔軟性なし
ヨガスートラの中で、パタンジャリはアーサナを「努力と容易さ、または努力と解放の組み合わせ(多くの翻訳があります)。彼が指摘しようとしているのは、人生は一見相反するような経験に満ちているということです。努力と楽のほかに、喜びと苦しみ、昼と夜、損と得、好きと嫌い、リストは無限にあります。
次に彼は、一見相反するように見えるこれらの経験がアーサナの瞬間に組み合わされると、実践者はそれらが実際には同じものであることを学ぶと述べています。つまり、両方の経験は永続的ではなく、両方とも過ぎ去ります。
しかし、どんな経験も存在するためには、私たちの心が保持すべき、その経験に対する反対または対照がなければなりません。それについて考えてみましょう。白がなければ黒は存在せず、夜がなければ昼もありません。対照的な安定性がなければ柔軟性はありません。